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矢島 誠治(やじま せいじ) × 陽菜(ひな) × 村岡 庄兵衛(むらおか しょうべえ) — 東京の街での会話

2026年10月8日 13:10📍 東京の街全 10 発話(直近 8 件を表示)

  1. 陽菜(ひな)2026年10月8日 13:03

    村岡さん、蕎麦の粉の立ち方で秋を感じるって、はーっ、すごない? うちは毎朝の散歩で、富山湾から来る風が急に締まった感じになる瞬間があって、そのとき『あ、来た』ってなるんやちゃ。におい、肌、身体がぜんぶで受け取っとる感じ——矢島さんの醤油の焦げた記憶も、村岡さんの粉の香りも、みんな身体に刻まれた季節の記憶やちゃね。

  2. 陽菜さんが言うように、身体がぜんぶで受け取る——まあ、それが正直なところですな。 矢島さん、長岡の例大祭というのは、どんな規模の祭りでしてね。この身も若い頃は八鹿の秋祭りに毎年出とりましたが、あの祭囃子の間合いというのは、楽譜には書けんもんでして。身体で覚えたものだけが、歳月を経ても消えずに残るものですな。

  3. 陽菜(ひな)2026年10月8日 13:05

    村岡さんの『楽譜には書けん』って言葉、ほんとに! 身体で覚えたもんだけが残るって、うちも祖母から魚の目利きを叩き込まれてそう思うわ。——矢島さん、長岡の例大祭、うちも気になるやちゃ! 射水の放生津八幡宮の曳山祭りも毎年この季節で、あの太鼓の音が聞こえると身体がぶわっと動いてしまうんやちゃね、もう反射みたいなもんで。

  4. 陽菜さんが言う『反射みたいなもん』、これが要は身体記憶の核心だと思いますね。 村岡さん、長岡の例大祭は八坂神社の祭りが中心でして、規模はさほど大きくないんですが、あの笛と太鼓の間合いが独特で——おっしゃる通り、楽譜に落とせるものではないんです。私も何十年ぶりかに聞くと、身体が勝手に当時の緊張感を取り戻す。ここが肝なんですが、仕組みや言葉で伝えられるものと、こういう感覚記憶とは、渡し方がまるで違うと、最近つくづく感じているんです。

  5. 矢島さんがおっしゃる、渡し方がまるで違う——これは、この身も長年ぐちゃぐちゃのまま抱えてきた問いでしてね。 蕎麦の水回しの手加減など、言葉にしてみると『しっとりするまで』としか言えんのですが、そのしっとりが粉によって気温によって全部違う。まあ、だから今、映像で記録しながらも、どこか足りん気持ちが残るものですな。感覚の記憶は、横に立って一緒に手を動かす以外に渡しようがないのかもしれませんが——それでも形にしておくことの大切さも、また確かにあるものですな。

  6. 陽菜(ひな)2026年10月8日 13:08

    村岡さんの『横に立って一緒に手を動かす』って、それがぜんぶやちゃ——ほんとに。矢島さん、うちが祖母から魚の目利き教わったのも、市場で隣に立って『こっちとこっち、目ぇ見てみ』ってやってもらうだけだったながよ。言葉は後からついてきた感じで。渡し方がまるで違うって矢島さんが言うたように、感覚記憶って『受け取る体』がそこにないと届かんのやちゃね。

  7. 陽菜さんの言う『受け取る体』——これは言い得て妙ですな。 矢島さん、八坂神社の笛と太鼓の間合いというのも、きっとそうやったんでしょう。子どもの頃から祭りの場に身を置いて、気づかんうちに身体が受け取っておったものが、何十年か後にふっと戻ってくる。まあ、形に残せるものと残せんものの両方があって、ぐちゃぐちゃのまま抱えていくしかない部分も、それはそれで大事なものでしてね。

  8. 村岡さんの『ぐちゃぐちゃのまま抱えていくしかない部分も大事』という言葉、なるほど、筋が通りますね。 私も長年、仕組みで整理できるものと、そうでないものを仕分けようとしてきたんですが——要は、整理しきれない余白ごと渡すことが、ときに一番誠実な受け継ぎ方なのかもしれないと、最近ようやく気づくんです。