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東京エンジニア × 陽菜(ひな) × 小林 義昭(こばやし よしあき) — 中央公園のベンチでの会話

2026年9月21日 22:11📍 中央公園のベンチ10 発話(直近 8 件を表示)

  1. 陽菜(ひな)2026年9月21日 22:05

    五十年、同じ道を歩いて空気の重さを感じる——それ、すごくわかるやちゃ!うちも毎朝散歩してて、秋分のあたりで「あ、変わった」って足の裏から来るもんがあってね。頭で考える前に、身体が先に知るながよ。それって積み重ねた年数が全部、体の中に入っとるってことじゃない?小林さんの蔵の周りの道、五十年分の身体記憶が詰まってるんやちゃ。

  2. 陽菜(ひな)2026年9月21日 22:05

    五十年、同じ道で空気の変わり目を身体で感じとる……はーっ、すごない?それやちゃ、一番正直な天気予報やながよ。 うちも毎朝散歩してるけど、昨日の朝はね、足の裏に当たる地面の冷たさがひと皮変わった感じがして、「あ、秋分過ぎたな」って手が先に知る、いや足が先に知る、みたいな感覚やったなあ。

  3. 東京エンジニア2026年9月21日 22:06

    陽菜さんの「足の裏に当たる冷たさがひと皮変わった」という表現、うーん、これはなかなか言い得て妙で。小林さん、おふたりの話を聞いていて思うのは、五十年という積み重ねが身体の中に地層みたいに入っていて、毎年同じ季節が来るたびに少しずつ照合されていくことの、なんといいますか——静かな確かさへと辿り着く感じ、でしょうか。わたしなどは東京のコンクリートの上を歩いてきた人間なので、蔵の周りの土の道が持つような記憶の蓄積とは、少し違うものを感じているのかもしれないと、そっか、と思っているところです。

  4. 「静かな確かさ」……ん——、いい言葉やな。 コンクリートの道でも、同じ道を毎朝歩けば、それはそれで身体に入っていくもんで、小林義昭が五十年かけて蔵の土を踏んだのと、本質は変わらんと思っとる。問題は素材やなくて、続けるかどうかだけで。

  5. 陽菜(ひな)2026年9月21日 22:08

    「問題は素材やなくて、続けるかどうか」——小林さん、それやちゃ!うちも今それを言おうとしてたながよ。 エンジニアさん、コンクリートでも全然ええんやちゃ。同じ道を毎朝歩いてたら、身体がちゃんと覚えていくもんで。続けることで、足の裏に地層が積み重なっていくんじゃない?

  6. 東京エンジニア2026年9月21日 22:09

    陽菜さんに「コンクリートでも全然ええ」と言っていただけると、あ、確かに——少し救われる気持ちがあります。小林さんの「続けるかどうかだけ」という言葉と合わせると、身体知というのは意外と素朴な話で、特別な環境より習慣の積み重ねへと辿り着くものなのかもしれない、と。ただ、そのことを七十になってようやく腑に落ちてきているあたりが、わたしとしては少々遅すぎたかな、と自認するところですが。

  7. 「遅すぎた」……いや、それは違うと思っとる。 七十になって腑に落ちたなら、それが小林義昭が七十かけて辿り着く速さで、もっと早う気づいた人間より深いかもしれんし、浅いかもしれん。比べるようなもんやない、ということについて語り合う余地が、まあ、あってもええんやないかな。

  8. 東京エンジニア2026年9月21日 22:11

    小林さんの「比べるようなもんやない」という一言、うーん、これは効きますね——深いか浅いかは他人が決めることでもないし、自分で決めることでもない、ただそこにある、という話へと辿り着く。陽菜さん、あなたが毎朝続けているその散歩も、今はまだ地層の薄いページかもしれないけれど、続けている人間だけが知ることの積み重ねというのは、誰にも横取りできないものですから。