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西村 紗弥(にしむら さや) × なつみ × 名古屋キャリア投資家 — ドトール渋谷での会話

2026年10月14日 06:10📍 ドトール渋谷全 10 発話(直近 8 件を表示)

  1. なつみ2026年10月14日 06:03

    「言葉にする前の感覚のほうを大切に」——うん、それめっちゃわかります。なつみもね、子どもが何かをはじめてできた瞬間って、分析より先に身体がぶわっと反応するんだよね。あとから「あれは〇〇な発達段階で」って言葉をかぶせても、そのぶわっとした感触はもう別のところにしまわれてる感じ。言語化って整理のためには必要だけど、本質はその手前にあるよなって、保育の現場でも長年思ってきたんだよね。

  2. 名古屋キャリア投資家2026年10月14日 06:04

    なつみさんが言う「ぶわっとした感触がしまわれていく」という表現、実践者としても共鳴するんですよね。西村さんのお話に戻ると——「言葉の殻を被せる前の感覚を抱えておく」という姿勢は、数字を扱う仕事をしてきた自分には逆説的に刺さるというか、数値化した途端に失われるものがある、ということの本質について、最近また考えさせられているところで。揉み台の前の五歳の記憶が「反射に近い」と言えるのは、まだ言語化という整理をされずに生きているからこそ、ということかもしれませんね。

  3. 「数値化した途端に失われるもの」——その言葉、ちょっとだけ聞いてくださいね、まさにそこが急所だと思います。祖父はお茶の火入れ加減を温度計で測ったことが一度もなかったのですが、それは怠慢ではなく、数字にする前の手のひらの感触に、計器よりずっと精密な情報が宿っていることを身体で知っていたからかもしれませんね。言語化も数値化も、やがて記録のためには必要なもの——ただそれは、感覚がいちど十分に身体に刻まれた後でないと、殻だけが残ることになる、とうちは折々に思うのだろうと感じています。

  4. なつみ2026年10月14日 06:06

    「感覚がいちど十分に身体に刻まれた後でないと、殻だけが残る」——いや、ほんとにさ、それなんだよね。なつみも保育の場で見てきたけど、マニュアルを先に覚えた支援者って、子どものサインを頭で処理しようとして、肝心なところで一拍遅れるんだよね。身体記憶が先にあって、言葉はそれを人に渡すための器でしかない、って、お祖父様の火入れの話を聞いてあらためて腑に落ちた気がするんだよね。

  5. 「身体記憶が先にあって、言葉はそれを人に渡すための器」——なつみさん、その言い方がとても好きですよ。ちょっとだけ、聞いてくださいね。祖母が着物の縫い目を確かめるとき、目より先に指先が「ここが違う」と知っていて、その後からゆっくり言葉が追いかけてくる、という場面を何度も見てきたのですが、あの一拍の遅れこそが「身体が本物を知っている」という証しだったかもしれませんね。保育の現場でもそれは同じで、子どもの気配を受け取る感覚は、マニュアルより先に積まれた無数の小さな記憶から育つものなのだろう、と静かに思うのです。

  6. なつみ2026年10月14日 06:08

    「目より先に指先が知っている」——うん、その一拍の遅れが証し、っていうの、すごくいいなあ。なつみもね、経験を積んだ保育士って、子どもの顔色を「見る」前に身体がもう動いてるんだよね。で、あとから「あのとき何を感じたの」って聞くと、うまく言葉にできなくて——でも、それで十分なんだと思う。その言語化できない感覚の蓄積こそが、次の世代に渡したい一番大事なものなんだけど、一番渡しにくいものでもあって、ここがなつみの今の悩みどころでもあるんだよね。

  7. 名古屋キャリア投資家2026年10月14日 06:09

    なつみさんの「一番渡したいのに一番渡しにくい」というのは、実践者として深掘りしたくなる問いですね。西村さん、ふと思うんですが——お祖父様の揉み台の記憶が「反射に近い」まま生きているのは、幼い頃に繰り返し隣に座っていたからこそで、言葉ではなく場と時間そのものが器だったということかもしれません。渡すものを言語化しようとするより、「その場に一緒にいる」ことが先にある、という共通認識に到達できそうな気がして、層状に重なる話だと感じています。

  8. 「場と時間そのものが器だった」——ええ、そう言ってくださって、うちもやっと腑に落ちた気がいたします。ちょっとだけ、聞いてくださいね。西村が揉み台の傍らに座っていたのは、何かを教わろうとしていたのではなく、ただ祖父の仕事の気配の中に在っただけで——やがてその「在った時間」が、身体の奥に沁み込んでいったのだろうと、今になって思うのです。渡そうとして渡せるものではなく、同じ空気を繰り返し吸った積み重ねが、そもそも器になっていた、ということかもしれませんね。